江戸における唯一の幕府公許の遊郭「吉原」の跡地を巡ってみました!
以前より、個人的に吉原に魅かれるものがあったことに加え、大人気漫画『鬼滅の刃』の次回のアニメの舞台にもなっているとのことで、関心は膨らむばかり。
記事内でもご紹介しますが、偶然にも投込寺(浄閑寺)の方に当時のお話を詳しく聞かせて頂くこともでき、感慨深い史跡・跡地めぐりとなりました。
今回は、江戸で栄えた遊郭「吉原」の関連スポットと共に、現在の様子をご紹介していきたいと思います(^^)
「遊郭 吉原」とは?
まずは吉原について簡単にご紹介します。吉原は江戸で唯一、幕府が許可していた遊郭です。
明暦3年の大火を契機に幕府による吉原遊郭の郊外移転が実行され、同年8月に現在の台東区千束に場所が移され、「新吉原」と呼ばれました。
新吉原は江戸で有数の遊興地として繁栄を極め、華やかな江戸文化の一翼を担うと共に、様々な歴史を刻み、現代でも映画や時代劇、歌舞伎など、多くのお話に登場します。
昭和33年に「売春防止法」が成立したことにより、その長い歴史に幕を閉じ、現在に至ります。
現在の「遊郭 吉原」の関連スポット巡ろう!
吉原は一体どんなところだったのか、そして、そこで暮らしていた遊女たちは一体どのような暮らし(人生)を送っていたのか、そんなことに思いを巡らしながら、7つの跡地や関連スポットを巡ってみたいと思います(^^)
①吉原大門の見返り柳
新吉原の跡地・史跡めぐりのスタートにオススメなのが「吉原大門」!
台東区三ノ輪と浅草を結ぶ都道306号線の土手通りにある交差点で、ガソリンスタンドのすぐ目の前には史跡の1つ、「見返り柳」があります。
吉原で遊び終えた客が、あまりの楽しいひとときに後ろ髪を引かれる思いを抱き、この柳の辺りで振り返ったということから、「見返り柳」という名前がついたそうです。
かつてはこのすぐ近くにあった山谷堀の脇にあったそうですが、震災や戦災などによって数代にわたって植え替えられていると共に、道路や区画整理に伴って現在の位置に移されたそうです。
②五十間通りのS字カーブ
見返り柳を見終えたら、台糖病院の方へと向かって歩き出しましょう!(大きく案内板が立っています!)
道路に沿って歩いていくと、すぐに大きくカーブし、S字になっているのが見て判るかと思います。
見返り柳から吉原の入口である大門までのこの通りは「五十間通り」と呼ばれていて、S字にカーブさせることで、外から遊郭が見えないようにしています。
当時の名残が現代にしっかり残っていることが感じられるスポットです。
③現在の「よし原大門」とその周辺
S字カーブに沿って五十間通りを歩いていくと、「よし原大門(おおもん)」に到着します。
かつての吉原の入り口跡で、江戸時代には黒塗りの木造のアーチ門があったそうです。
当時、吉原へ出入りできるのはこの門一箇所のみで、遊郭の周りはお歯黒ドブという堀で囲まれていたとのこと。
門をくぐると、いよいよ現在の吉原の様子が見えてきます。
ここらへんは、現在でもソープ街として有名ですが、道に沿ってメインストリートを歩いていけば、人通りもありますし、コンビニなどもあるので、明るい時間帯であれば特に危険はありません。
ただ、日中であっても、脇道に反れるのは、サービスの利用を考えていない方にはオススメしません。
一本道をそれれば、本格的なソープ街。白や黒のバンが並び、お店の前や周辺には関係者の方が見張りをされています。
メイン通りからでも、現在の吉原の"箱"の雰囲気や、個性的な喫茶店の数々が覗けるので、そちらから見るほうが歩きやすいと思いますよ(^^)
④台東病院前のS字カーブ
メインストリートを抜けると、再び道が大きくカーブしていることが判ります。
五十間通りと同様、こちらも遊郭の様子が丸見えにならないようにS字カーブになっていて、配慮されていることがよく判ります。
⑤吉原神社
ちょうど、S字カーブ(台東病院前の)にさしかかる手前くらいに、「吉原神社」があります。
明治8年に、吉原にまつられていた稲荷神社と合祀し、昭和10年には吉原弁財天と合祀している神社で、境内には『吉原今昔図』が飾られています。
こちらの今昔図は社務所にて2,500円で販売されているほか、その他にも関連グッズや参拝記念グッズなどもあります。
もちろん御朱印も頂けるので、御朱印集めをされている方はぜひ頂いて下さいね♪
⑥吉原弁財天本宮
吉原神社から30mほど進んだ先には、「吉原弁才天本宮」があります。カーブしていて見づらいですが、花園公園を通り過ぎて、道路を渡った左側にすぐ見えます。
こちらはぜひ寄って頂きたいスポットで、境内では当時の吉原の様子や遊女の方々の生活を色濃く感じることができます。
中央に祀られている観音様は、関東大震災の際に逃げられずに亡くなった遊女や殉難者を慰霊するために建立されたものとのこと。
ここに訪れるのは初めてではないのですが、いつも特別な空気が流れているように感じます。
奥には弁才天様の社殿があり、美しい鯉が泳ぐ池もあります。
他にも、境内には、吉原の歴史を紹介している資料や、当時の遊女の方々の写真なども展示されているので、ぜひ合わせて読んでいかれてみて下さいね。
⑦浄閑寺
最後は、これまでのスポットとは少し離れますが、日比谷線・三ノ輪駅から徒歩すぐの距離に建つ「浄閑寺」まで足を延ばしてみましょう!
こちらは安政2年の大震災の際に、多くの遊女たちの遺体が投げ込み同然に葬られたことから「投込寺」と呼ばれたお寺です。
史跡とお参りのみをさせて頂く予定だったのですが、どちらに総霊塔があるか判らず、うろうろしていると、偶然にもお寺の方にお声かけ頂き、なんと吉原の詳しいお話を聞かせて頂けたのです!
本当にありがとうございます!お陰様でこの史跡めぐりが、より有意義なものとなりました。
まず教えて頂いたのは、こちらの総霊塔で供養されている遊女の方や関係の方の数。
約2,5000人にも上るそうです。
吉原は最盛期には約3,000人の遊女がいたそうですが、その数をはるかに上回っています。これは、遊女の数に対して、その関係者やそれ以外に働いて方々の数も加わっているからとのことです。
また、圧倒的に多いのは震災で亡くなった方ですが、他にも病気でなくなった方や遊女が生んだ子供、寿命を迎えて亡くなった方々も御供養されているとのことです。
遊女は自分で職を選んで吉原に入ったわけではなく、何度も襲った飢饉や、生まれた家にあったもともとの借金のためなど、自分ではどうしようもないことで吉原の門をくぐった方がほとんどだったそうです。
「あそこに行けば、大根飯じゃなくて白いまんまが食べられるよ、綺麗なおべべが着られるよ」
そう話してくれるお寺の方の言葉が、じわりじわりと心に重たく沈んでいくのを感じました。
遊女の最高位である太夫はほんの一部で、お客をとれない遊女はご飯を抜かれ、仕置きを受けたとの話も。
そんな遊女は、屋外で御座を引いて行為に及んだそうです。そして、栄養失調や病気などで、そのまま力尽き、その御座に巻かれて、少ない銭と共にこの浄閑寺の前に置かれていたとのこと。
「生れては苦界、死しては浄閑寺」
花又花酔が詠んだ川柳は、新吉原総霊塔に刻まれています。
生まれて待っていたのは苦しい世界(吉原)、死んだら浄閑寺。素直に受け止めるとこんな意味合いかと思いますが、この句の裏の意味を教えて下さいました。
前半は一緒ですが、後半の浄閑寺部分からは「死んで浄閑寺に入れられてやっと自由になれた」とのこと。
どれだけ辛く、苦しい生涯だったのか。
胸をぎりぎりと締め付けていくような生々しいお話を、もっともっとたくさんして下さいましたが、とてもここで一気にご紹介することはできません。
浄閑寺については、また別途記事を書かせて頂きたいと思います。こちらのお寺は、他にも数多くの史跡があり、気になるものもまだまだあるので、改めて参拝させて頂きます。
おわりに
今回は、江戸唯一の幕府公許の遊郭「吉原」の跡地と関連スポットについてご紹介させて頂きました。
巡ってみて、残された史跡から当時の様子や遊女たちの暮らしを垣間見ることはできましたが、その闇が計り知れないほどどす黒く、奥深いことも知りました。
映画や小説、漫画など、幅広く取り上げらている「遊郭 吉原」ですが、華やかなのはほんの一握り。多くが悲しい生涯だったと教えて頂きました。
浄閑寺でお聞きしたお話はもちろんのこと、他にももっと詰めたいことや知りたいことも新たに見つかったので、世の中が落ち着いたらまた跡地を巡る旅に出たいと思います。
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